いま いるところ

私の場合、すてぃっちが生まれてからしばらくは
しょうがいについて 深く考えることになりました。
考えて 今は自分なりにたどり着いたところがあって
最近では 特別に考えることはしなくなりましたが。

身体的はもの、すてぃっちのような知的なもの、
生まれた時から、あるいは後天的に、
病気で、あるいは怪我で。
自分自身も 歳をとったら しょうがいしゃになるかもしれません。
だから 誰にとっても 身近な問題だと思います。

でも経験しないと なかなか身近に考えられないというのも またあると思います。

昨年、重症心身しょうがい者の通所施設の開設者である 日浦美智江先生の講演に 
二度ほど参加する機会に恵まれ その内容が とても深く、胸をうつものだったので
心に残ったことを 記しておきます。





『命はみんな一緒』
  体や心は病むことがありますが 命は病気になりません
  自由に動く体に宿った命も 自由に動かない体に宿った命も
  それぞれ その与えられた体を使って生きている
  だから 命は みんな一緒。

『社会との関わりを持つ ということ』
  「人の役割」は 人と人との関係の中でできるもの
  たとえ重いしょうがいがあったとしても
  社会と関わり、他の人から 存在を認められる事で
  人は「生きる力」を得て、それは「自立」につながる。
  誰もが 参加できる 社会作りをしていくことが必要。

『この子がいたから いい人生を送れた、と思える人生を作ろう』
『誰でも 可能性を持っている、その芽が出た時 それを喜んであげよう』
  これは 先生と共に施設を立ち上げたお母さん達の言葉です。



私は しょうがいの有無に関係なく、誰にでもあてはまる話として
私達、親の誰もが そう感じて子供と向き合いたいものだと思いました。
先生はスライドを使って 彼らの活動の様子やエピソードを紹介してくださいます。
その写真の中の 生き生きと輝いた表情に 私のどこかが揺さぶられました。
自分は何気なく生きているけれど、
「生きる」とは 明るくて 強いこと、命はみんなに 同じ重さ、
うまく言えない気もちですが 強く思いました。
この子はこの道へ と、他人の想像力で 本人の進む道を決めてはならない、
本人本位で進ませるべきだが、それには まず
本人本位で生きられる社会作りが必要だともおっしゃってました。

私の知人の中には しょうがいのある子を育てている親は
どこか自分と違う 特別な親 と感じている人もいるようです。
私は 特別な親なんていない、と思います。というより みんなが特別な親、子供にとっては。
また逆に 事件がある度に耳にする 普通の子 なんてのもいない、
どの子も親にとっては特別な子供。
特別な親と 特別な子供が 出会って [親子] なんだと思うと
子供達が もっと愛したくなります。

しょうがい という事とは それてしまった様かもしれませんが
今の私は そんなとこに流れ着いています。

こうして文章にしてみても
なにか もっと違う言葉で表現できそうな、
そうじゃなくて、もっと深くてまとめきれる想いではないような・・・

でも 今の気持ちとして とっておきます。
数年後は もっと大きな思いになってるかもしれないし、
また違った岸へ流れ着くかもしれない。

その時の自分も また私。
学ぼう、生きること。
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by tiisai-ningyo | 2006-01-18 21:09 | 私のきもち